サー・アーネスト・メイソン・サトウ(英語: Sir Ernest Mason Satow、枢密顧問官、GCMG、1843年6月30日 - 1929年8月26日)は、イギリスの外交官。イギリス公使館の通訳、駐日公使、駐清公使を務め、イギリスにおける日本学の基礎を築いた。日本名は佐藤 愛之助(または薩道愛之助)。日本滞在は1862年から1883年(一時帰国を含む)と、駐日公使としての1895年から1900年までの間を併せると、計25年間になる。息子は植物学者の武田久吉。(Wikipedia より転載)
アーネスト・サトウは、1862年、生麦事件の六日前に英国大使館付通訳官(着任時は見習い)として19歳で横浜にやってきた。それからの21年間、巧みな日本語を駆使し、幕府方、勤王方双方の役人、志士たちと交流し、幕末から明治初期にかけての日本を観察、日記を残した。中でも1877年、一時帰国の英国からの帰途、西南戦争直前の西郷隆盛に鹿児島で出会った場面は印象的である。
萩原延壽氏が、サトウ日記をもとに労作「遠い崖」を執筆された。